笠間焼とは
産業としての歴史は江戸時代からですが、
笠間には縄文時代や弥生時代の土器、
奈良時代から平安時代にかけて使われた
窯跡が残っており
はるか古代からやきもの作りが行われてきました。
古今東西、必ずと言っていいほど人の生活に寄り添ってきたやきものは、
時代を経るごとに単なる素材、道具の範疇を超え
私たちの五感を刺激する触媒として、
また、人間の「創造する」という本能を受け止める
しなやかな器としての
在り方が強まっているように感じます。
北関東の小さなこの窯業地にも
数えきれないほどの
職人、陶器商、作家、ギャラリストの手によって
歴史が刻まれてきました。
笠間と自然、
時代の波と笠間焼。
笠間は、茨城県のほぼ中央に位置するなだらかな低山に囲まれた里山の町です。江戸時代から続く北関東の窯業地で、小菊や栗、稲田白御影(御影石)の日本有数の産地でもあります。さまざまな農産物の栽培南限・北限にあたる地域なので、四季折々で幅広い作物が採れます。
御影石は学術的には花崗岩と呼ばれ、地中奥深いところでマグマがゆっくりと冷え固まったもの。やきものと御影石は、一見別々の産物に思えますが、笠間の粘土はこの花崗岩が風化してできたものなので、年の離れた兄弟のような関係なのです。
江戸時代に始まる
笠間焼の源流。
江戸時代の安永年間に、久野半右衛門が始めた「箱田焼」と山口勘兵衛が始めた「宍戸焼」が笠間焼の源流と言われています。主に甕や擂鉢などの生活雑器が作られていました。
笠間藩主 牧野貞喜(一七五八‐一八二二)と牧野貞直(一八三一‐一八八七)は、窯業を重要視して、積極的に保護・奨励しました。生産増加と陶技を後世に継承する目的で貞直が定めた藩の御用窯「仕法窯」に指定された窯元は今も残っており、その火を守り続けています。
不況を乗り越え、
美術品として成長していく。
明治時代の陶器商田中友三郎の活躍で販路を広げた笠間焼は、一気に知名度を上げますが、大正末期から昭和初期にかけての不景気や、第二次世界大戦、樹脂・金属製品の台頭などの影響で衰退し、存続の危機が訪れます。
そんな状況を打破するべく、一九五〇年に窯業に関する幅広い研究と人材育成を目的とする機関 茨城県窯業指導所が設立され、また一九六三〜一九七二年にかけては、行政・民間が協力し、全国の芸術家を誘致する事業を始めます。作家用の団地を整備して多くの移住者を迎えました。
移住作家と地元の窯元・作家が互いに刺激を受けながら交流を深めていく中で、斬新な表現と技法が生まれ、美術品としてのやきものも作られるようになっていきます。国の伝統的工芸品の指定を受けたことなども追い風となり、再び産地に活気が蘇り現在に至ります。
伝統を継承しながら
新しい表現が生まれ続ける、
現代の笠間焼へ。
冗談めかして「笠間焼は特徴がないのが特徴」などと言われることもありますが、これは、先達の仕事を尊重しながら時代の新しい波を受け入れ、何度も息を吹き返してきた笠間焼が育んだ、他に類を見ない表現の多様性を現しています。
伝統的な笠間焼はもちろん、笠間土を使った現代的な表現、さまざまな素材から生まれる新しい技法、といった多彩なやきものの「顔」が見られる、それが笠間という産地の最大の特徴なのです。